しばらくぶりで脳直ブログになるね
またここの存在を忘れていたし、なんならログインの仕方も忘れていた。
サブアカウントの存在意義よ…
存在を忘れた方が健康的なのかもしれない。ここは愚痴ではないけど言葉の墓場なので。でも、なんか、気の吐き出し方を忘れたように「なんか違う、なんか違うぞ」となって、日記を書いたりアイデア帳をつくったりしてもちょっとしたズレでなんも解決しなくって。なんなら、YouTubeで『Hello,again』を検索し始めるあたり、もう、ちょっと狂ってきている。90年代音楽漁り始めたら情緒がおかしい。
そういうときはここだよ。確かにここです、この存在です。
プライベートのウェブサイトを作ったりもしたけど、結局ログインをスッとできなくて。でもなんだかんだゆるく永続的な存在が欲しいんだよな。
ブログって昔ほど検索に引っ掛からなくなったから、本当にネット上の独り言感がすごい。Twitterこそ呟くっつって独り言っぽっかったのに、もっと公的な存在になってしまった。最近のXくんのことは知りません。あれ夜の時間帯に英語圏の犬猫動画がおすすめを埋めるの。なんなの?アメリカ時間が起きたってこと?
頭のなかに浮かんでもないことを喋っている速度とそんなに変わらず打ち続けられるここの存在が本当にありがたい。でもありがたがりたくない。ここを思い出さない方が健康的なんだから。
最近ほんとに動きがなだらかというか、去年が動きすぎていたのかわからないんだけど「なんもしない日」が多くて。去年は顔出しも多くしてたからそんなに暇なときがなかった。今年は動く周りについていけてない気がする。あと尻込みしてる。
やりたくないことはしない、やりたいことだけやる、っていうワードを私の周りでよく聞きます。最近ね。最近の人たちがってことじゃなけど最近わたしが参加しているクリエイターや自営が多い人たりのプログラムで。
じゃあ、やりたいことってなんだ。そんなに自分のことがみんなわかってんのか。やりたいことって、わたしはひたすら海を眺めながら食べて寝て写真撮って、そんで犬を撫でくりまわして穏やかに生きたい。仕事をせずに。
そういうことじゃないのか。結局したいことは金がかかって金がないとできないことなので、そういうことじゃない気がしてきた。
でも生き方の話をされるんだよ。したくないことはしない。そしたら楽になった。って。
わたしは鵜呑みにしてしまう。したくないことをしなかったら、本当に年金も税金も払えない。というか暮らしていけない。くそ。
九州ですらこんな降るし積もるんだよ。寒いよ。
さっきの穏やかで丁寧な暮らしみたいになってしまったことを訂正します。朝からスプラトゥーンして映画見て漫画見て死ぬほどインプットして、ウガー!ってなってから外に出たい。
かわいいもの売って、かわいい写真撮って、その感性のままタイに行ってかわいいもの見つけて。そういう人がうらやましいのは、単に生き方というより、その可愛い人が羨ましいんだな。本当にないものねだりすぎる。比べて生きるのをやめよーぜ。
去年からちょっとお世話になったお仕事から派生して、今年の春に新しいジャンルの撮影をさせてもらって、それが反射力と現場力がすべて、みたいな感じで楽しい。色とか構図とか二の次。でも青春撮らせてもらってる。嬉しい。
やれること、やってること、したかったこと、できなくなったこと。もう少し並べると地団駄してる感がなくなるのかな。進んでるようで進んでなくても、時間が勝手に進んでくれているので。それはそれで、進んでます。
あとは自分のテリトリーが欲しいな。部屋に機材が溢れて、そんでもってこれから在庫が増えそうなので。棚卸ししないといけなくなりますよ、って言われて「!?」ってなっちゃった。わたし棚卸しないといけないの???
また話変わって。デジタルなアイデアを保存しておきたくてnotionを使ってたんだけどスマホでの使い勝手が悪すぎて、そのうえ、やっぱり自由度が高いからこその膨大さに、風呂敷広げすぎてどうしようもなくなって。結局ネタ帳をどうしたら上手く保存して引っ張り出せるのかと。もう永遠の課題。そのうちこの問題も忘れて課題じゃなくなるんだな。
円安すぎるけど今度バンコクいく。ていうか、9月にチケットとったけど、11月が遠すぎてもうダメだ。やっぱり来週末いくよくらいのノリじゃないと。
このカメラを買う前に、すっごいジレンマと嫉妬で吐きそうになったことを思い出してください。そしてこのカメラを買って一発目に撮った透明感に感動しすぎて泣きそうになったことを。これはその時の写真ではありませんが。
わたしの理想とする写真はやっぱりどこかアナログで郷愁を漂わせるものというか、フィルムライク感というか、そういう色味が重要である気がします。
透明感とはちょっと逆のどっちかってとマットなくすんだ濁った方が好きなんですが。こないだそれが現像したときにドンピシャじゃん…ってなった写真があって。しばらくしてもその写真をその都度思い出すんですけど、あれよく見たらPENTAX(前のカメラ)で撮ってたわ。
やっぱりあっちで撮る…?いやこのカメラでもいけるはずだよきっと…
旅に出る時どっち持って行こうかな。いまだに決めきれずにいる。
なに撮りたいか
ひとつまえのブログとその前のタイトルがほぼ同じで、やっぱここはそういうところなんだよ。墓場だ。
本当はここじゃなくて、もっと別に更新しないといけないところはたくさんあるのだ。それはオフィシャルだと自分のなかで位置付けているので、こんなふうに何も考えずに打つことはできないんだなぁ。ここは日記の墓場だから。備忘録。
いまyoutubeでもSpotifyでも知らない音楽、出会うはずのなかった音楽とどんどん出会って聴けていい世の中だなぁと恩恵を受けまくっているんだけど、CDとして購入しなくなった経済の回り方はどう変化していっているんだろう。本も電書より紙媒体で買ってくれ、なんていう作家や出版社がいるけれど、時代のニーズと動きにはどうしても合わせていかなければいけないし、合わなければそれなりの対策をしなければいけなくて。
紙媒体としての「本」の価値も、ライブやフェスで体感する「音楽」の価値も実はちっとも変わっていないんだけど、それらを受容できるこちら側、受け取り側が選べるようになったので分母はどうしても変わるだろうし。
そんななかでメタバースはたぶんきっと主流になる、主流になるって言われてるけど一昔前はオンライン通販がまだまだ詳しい人しかできなかった時代もあったので、一般的に浸透して誰もが使えるようになるにはもう少しかかる。でも巻き込まれていくと、きっと今よりもわかりやすくて優しい世界にはなるよ。ただ、もうわたしも10代ではないので、はっきり浸透した後に流れるように移行してるんだろうな。GoogleMapがいつのまにかストリートビューになって立体的になって、世界中で知らない道が減ったように。Amazonや楽天でオンラインショップが並び、メルカリで個人が直接オンライン売買するようになったり。
デジタルとアナログって、分けることに意味もないけれど。
わたしがいま生活として使っている「カメラ」も、時代ごとに進化をし続けていて、フィルムがアナログといわれていたカテゴリに、デジタル一眼レフもそのうち入っていくんだろう。もうこれからはミラーレスだよ。軽いし性能はいいし。ただエネルギーめっちゃ使うし、デジタルって無限の可能性があるから対応していくのが大変。膨大なサイズを収めて使うための箱も必要になってくる。パソコンとか記録媒体とか。
なんか もっと 自分が撮りたいもの ないのかな わたし
作品撮りしなきゃ〜的なことから発生してるけど、そんなアルバム作らなきゃ〜っていう売れてるアーテイストじゃないんだから。溢れ出すものを形にしていく、みたいなことがないのか。ないな?
目の前の光やかわいいもの、残しておきたいものを撮りたいのはある。何かを拾っている老人とか。犬が見つめ返してる一瞬とか。なんかわからん。そういうの。絵になるじゃん今。的な。
ここは逃げ場
なんだか恥ずかしいことがあるとちょっとここのことを思い出す。
恥ずかしくて逃げたくて穴に入りたい時の気持ち。ここは逃げ場なのだ。
そうです。わたしはいくつになっても(歳を数えるのも果たして適切かどうか)、自分の主張は正しくて声を荒げないと伝わらないと思っている節があって。それもこれも小声だと透過されてしまう、これまでの経験もたしかにあるからこそ、ちょっとでも自分の主張が通るように早口で声を張り上げてしまう。もっと理路整然とできないものか。さもなくとも、そろそろ少し落ち着いて、周りを見ながらもっと頭を回せないものか。
どちらもできなかったけど、ありがたいことにチームが諦めずに話してくれてやっと「あ」と答えにたどり着いた。
答えというか、わたしの間違いというか、みんな主張は小さいながらも同じ方向性だったので粘り強くわたしを倒してくれた。
情けないけれど、気づけてよかった。気づかせてくれてありがたい。
フリーランスになってからとくに一人で決めて一人で仕上げて行くことが必要になって。だからといって共同作業がなくなるわけじゃないし、むしろ初めましての人とこそチームワークだったり共有すべきものが増えていくんだけれど。
生きていく上ですべてはコミュニケーションで、人間はコミュニケーションがないと生きていけない。社会の仕組みもそうなっていますね。
ここに記してしまったので、これを数ヶ月後に見返してまた思い出して恥ずかしくて気が重くなっちゃうのに、そうわかっているのに、それでもやっぱり残したいんだろうな。不思議だ。
懺悔と反省と、受け入れのための気合。
はあ残念な脳みそだこと。